日野原市の歩み

日野原市域は、房総丘陵の中央部に位置し、古くから森林と水に支えられた暮らしが営まれてきました。 丘陵上の台地や原野川流域では縄文時代から人の営みが確認され、市内各所に遺跡や集落跡が残されています。

中世には、上総国と安房国の境界に近い山間地域として、在地武士や土豪による小規模な支配が行われました。 室町から戦国期にかけては、安房里見氏と後北条氏の勢力争いの影響を受け、白嶺山麓には山城が築かれたと伝えられています。

江戸時代には、山林資源を生かした林業・炭焼きと、谷筋に広がる棚田農業が地域の暮らしを支えました。 薪炭や木材は、日野街道や原野川沿いの道を通じて内房方面へ運ばれ、周辺地域の生活や経済を支える資源となりました。

明治以降は、日野町・原野村・白嶺村の三町村を中心に、農林業と小規模商業のまちとして発展しました。 戦後の高度経済成長期には道路や生活基盤の整備が進む一方、若年層の市外流出や山間集落の人口減少が課題となりました。

平成18年(2006年)3月20日、旧日野町・原野村・白嶺村が合併し、日野原市が誕生しました。 現在は「山と水と人が輝く みんなのふるさと ひのはら」を将来像に掲げ、移住支援、農林業の振興、観光交流、公共交通の維持など、地域の持続可能性を高める取り組みを進めています。

年表
古代・中世
縄文時代房総丘陵の台地上に集落が形成される。市内各所で縄文土器・石器が出土(原野遺跡群・下原遺跡・白嶺台地遺跡ほか)。
弥生〜古墳時代原野川流域に稲作農耕が広まる。丘陵上に前方後円墳を含む群集墳が築造される(日野古墳群)。
奈良・平安時代上総国・安房国の国境近くに位置し、国衙への年貢輸送路として原野川沿いの道が整備される。
鎌倉時代原野川流域を中心に在地武士や土豪が定着し、日野郷・原野郷の地名が文書に見られるようになる。
室町〜戦国時代安房里見氏と後北条氏の勢力争いの影響を受け、白嶺山麓には防御用の山城(白嶺城跡)が築かれたと伝えられる。林業・炭焼きが盛んになる。
写真資料 ― 下原遺跡 発掘調査記録
下原遺跡 発掘調査の様子
下原遺跡の発掘調査(平成28年度)。発掘区画ごとにロープで仕切られた調査区内で、作業員が土層を丁寧に掘り進めている。スケール棒は50cm。
出土した縄文土器片
出土した縄文時代の土器片。土付きのまま取り上げられた状態。出土品の一部は市立歴史民俗資料館で展示している。
下原遺跡 現地説明看板
史跡公園内に設置された現地説明看板。国指定史跡として整備されており、見学は無料(4〜11月)。
近世(江戸時代)
慶長6年(1601)里見氏の上総支配が終わり、当地域が江戸幕府直轄領(天領)となる。代官所が日野宿(現・中央地区)に設置される。
江戸中期房総山林の伐採・運材が本格化。杉・ヒノキの植林が奨励され、原野川沿いの道や日野街道を通じて薪炭・木材が内房方面や江戸市場へ運ばれた。
享保年間(1716〜36)新田開発が進み、原野盆地や山裾に棚田が広がる。里芋・雑穀などの栽培が行われる。
天明3年(1783)浅間山噴火による冷害・飢饉(天明の飢饉)が房総内陸部にも及び、当地域でも深刻な食糧不足が生じる。
文化・文政期(1804〜30)原野地区の本縄周辺でびわの栽培が始まる。のちに在来系統のびわとして受け継がれ、現在のブランドびわ「ぽんなわびわ」の基礎となる。江戸への物資輸送路(日野街道)が整備される。
近代(明治・大正・昭和前期)
明治4年(1871)廃藩置県により木更津県に編入。翌年、千葉県が成立し千葉県の所管となる。
明治22年(1889)市町村制施行により日野町・原野村・白嶺村が成立。日野郡(のちに君津郡に統合)に属する。
明治30年代鉄道網の発達により安価な木材が流通し始め、房総内陸部の林業が徐々に衰退に向かう。明治後期から大正期にかけて、びわ・落花生などの換金作物の栽培が農家の副収入として広まっていく。
大正9年(1920)第1回国勢調査。3村合計人口 約23,400人。農林業就業者が人口の75%を占める。
昭和6年(1931)日野原農業組合が設立。びわ・落花生の共同出荷が始まり、農家の収入が安定化する。
昭和18年(1943)戦時下の食糧増産令により棚田の開墾が進む。若年男性の徴兵により農業労働力が不足する。
現代(昭和後期・平成・令和)
昭和30年代高度経済成長の波及により君津・木更津の工業地帯へ通勤する居住者が増加し、人口が増加傾向に転じる。
昭和47年(1972)国道465号の整備が完了し、市原市・君津市への交通アクセスが向上する。
昭和55年(1980)3村合計人口がピーク(約48,600人)に達する。白嶺温泉が観光開発され、旅館・宿泊施設が相次いで開業する。
平成3年(1991)バブル経済崩壊後、若年層の都市部流出が加速し、人口減少が続くようになる。
平成13年(2001)日野町・原野村・白嶺村による「日野原地域合併協議会」が設置される。行政の効率化と地域振興の観点から合併の検討を開始。
平成17年(2005)合併協定書に調印。市名を「日野原市」とすることが決定される。合併前の3村合計人口 約42,800人。
平成18年3月20日(2006)日野原市が誕生。旧日野町・原野村・白嶺村が合併し市制を施行。初代市長に田中義雄氏が就任。
平成21年(2009)「日野原市移住・定住促進条例」を制定。空き家バンク制度を千葉県内でいち早く導入する。
平成28年(2016)市制施行10周年。棚田米「日野原ひかり」が千葉県優良米品評会で最優秀賞を受賞。
令和5年(2023)宮本誠二郎市長が2期目に就任。「第3次日野原市総合計画」(令和5〜14年度)を策定・公表。
令和8年3月(2026)市制施行20周年。記念式典を開催。人口35,200人(令和7年5月現在)。
写真資料 ― 昭和の中央地区(合併以前)
昭和40〜50年代の日野町中央商店街
日野町中央商店街(昭和40年代後半ごろ)。電柱が連なる街道沿いに個人商店が並び、軽トラックが行き交う。当時の商店街は地域住民の生活の中心だった。/写真提供:日野原市文書館
旧日野町役場庁舎
旧日野町役場庁舎(昭和40年代)。小規模な庁舎に古看板が掲げられ、合併まで行政の中心として機能した。現在は現存しない。/日野原市文書館所蔵
日野街道沿いのバス停留所
日野街道沿いのバス停留所(昭和50年代)。山間道路を走る路線バスは、当時の集落住民にとって欠かせない交通手段だった。/日野原市文書館所蔵
合併の経緯と旧3町村の紹介

平成の市町村合併推進政策を背景に、行財政の効率化と住民サービスの維持・向上を目的として、旧日野町・原野村・白嶺村が合併協議を進めました。 平成13年(2001年)の合併協議会設置から約4年の協議を経て、平成18年(2006年)3月20日に日野原市が発足しました。

旧町村名現在の地区名面積合併直前人口特色
日野町
(ひのまち)
中央地区約108km²約23,100人市域最大の町。旧代官所跡に役場が置かれ、商業・行政の中心。落花生・棚田米の産地。
原野村
(はらのむら)
原野地区約112km²約11,700人原野川の源流域に位置する農業・林業の村。里芋・菜の花の産地として知られる。本縄地区では在来系統のびわ栽培が受け継がれた。原野盆地に市役所が置かれた。
白嶺村
(しらみねむら)
白嶺地区約92km²約8,000人市域南部の山間村。温泉地(白嶺温泉)として知られ、林業と山間観光を中心に発展した。スギ・ヒノキの人工林とシイ・カシ類を中心とした照葉樹林が広がる。
市名の由来

「日野原(ひのはら)」という市名は、合併した3町村のうち最大の旧日野町の「日野(ひの)」と、 市役所が置かれる原野村の「原(はら)」を組み合わせたものです。 また、「日野」は古くからこの地に広がる「日当たりのよい野」を意味し、「原」は房総丘陵内に広がる盆地状の 平原を指すとも言われており、市域の地形的特徴をよく表した名称となっています。

市名は平成17年(2005年)に公募が行われ、寄せられた約1,200件の応募の中から合併協議会が審議のうえ決定しました。 「太陽の光が降り注ぐ、広々とした原野」というイメージが市民に親しまれ、新しいまちの名前として採用されました。

市名日野原市(ひのはらし)
由来旧日野町の「日野(ひの)」+旧原野村の「原(はら)」の合成。「日当たりのよい野と原」を意味する。
決定時期平成17年(2005年)9月 合併協議会にて決定
公募件数約1,200件(旧3町村住民・出身者から募集)
このページに関するお問い合わせ先企画政策課電話:0100-88-1114(内線 101)
最終更新日:令和8年6月1日